障害者として生きていくことは「疲れ」と「孤独」のバランスゲーム?ってお話

こんばんわ。

嫁が何か捜し物をしていたので「何探していると」と聞いたら「何探してるか知らない?」と問われたので「知ってたら怖いだろ」と即答したくらげです。流石のボクでも読心術は使えません。読唇術はある程度出来ますけど。

唇を読むのは必要か

口話法とは

聴覚障害者の中には唇の動きで会話を読み取る人もいます。いわゆる口話法というものです。

口話法とは唇の形や動きを見て話す内容を理解し、自分の唇や舌の動きを把握して発音を行う方法です。残った聴力を補聴器や人工内耳で補って口話法を行うことを「聴覚口話法」ということもあるようです。

どれくらい影響があるか

ボクはろう学校で口話法を学んだことはないのですが、自然に唇を読むことを覚えたので、人の唇を読むことはある程度出来ます。というか、唇を見ないと聞き取り能力が半分以下になりますね。

人工内耳や補聴器がかなり適合しているといわれるボクでも唇を見ないとコミュニケーションが崩壊する。それだけ人の口の形は聴力を補完するのに必要なのです。

でも、人の唇をずっと見てるのは疲れますし、多人数での会話にはついていけないし、唇が見えない距離では役に立ちません。そういう限界も身にしみてわかっています。

孤立と疲弊のシーソーゲーム

誰にとっての楽なのか

とはいえ、人工内耳と補聴器を活用して唇を読んで会話をするのがボクのメインのコミュニケーション方法。

これが一番「周囲が楽」だからですね。逆に、ボクがコミュニケーションで楽をしようとすると次は周囲が疲れる。もちろん、どちらも疲れない方法もあるのでしょうが、ボクの現状ではこういうパワーバランスが働いています。

頑張って聞こうとすると疲れ果ててしましますが、逆に、人工内耳や補聴器を使わず筆談をメインにしようとすると次は他の人が話しかけてこなくなり孤立します。これはもう嫌というほど経験しましたが、「疲れ果てた方がマシ」なんですよね。

肉体的な疲弊はなんとかなりますが、孤立は尋常でなく精神力を削り取っていきます。そして精神力の方が回復しにくい。なので、その場で疲れ果ててきつくても、頑張って聞き続けることが「マシ」ということになります。

障害者と健常者のせめぎあい

こういう不均等さというか、トレードオフの関係は障害や病気などを持つ上では避けて通れないところですね。「健常者としての自然」と「障害者としての自分」のバランスのせめぎ合い、ということも出来ます。

口話法は健常者に近づくことを理念とした教育法です。しかし、聴覚障害者からすれば口話法は不自然極まりなく手話を使って生きたい、というのも当然のことですし、ボクもそう思います。

ですが、社会全体でみたら手話言語者はわずかしかいません。こういう世の中で「手話で生きる」こともまた難しい。徐々に手話通訳や要約筆記が世の中に少しずつ浸透していっても、限界はある。

ならば、補聴器や人工内耳の活用は、といいますと、これはこれで疲れるし雑音はうるさいし、という面ではやはり「不自然さ」はありますね。

自分なりのベストミックスを

落とし所を考える

じゃ、どうすればいいのかというと、自分なりのベストミックスを見つけていく。なにをやっても健常者は意識しない苦労はあると自覚して生きていく。

ボクは人と話す時は人工内耳や補聴器をつけますが、そうでない場合は補聴器も人工内耳も外しています。人に話しかけられるのがわかってから装着します。そのくらいの折衷案が今のところ職場でのベストミックスです。

外出や買い物でも補聴器等はほとんどつけていません。危険だったり不便なことがあるのですが、いかんせん街中は雑音を拾いすぎて頭が痛くなる。このへんも割り切りです。近くのコンビニやスーパーではボクが耳を悪いのを知っている店員も多いので慣れると特に不便もなくなりますしね。

こういう経験をすると、場合場合での「割り切れる範疇」を探って行くなり提案するなり押し通すなりする考察や交渉が必要にあるんだろうな-と。

連絡ください

まぁ、ボクが学んだノウハウでよければ開示しますので、メールフォームツイッターなどから連絡いただければ。

では、今日はこれくらいで。でわ。

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