障害者の平均寿命と締め切りを破ってズルズル生き延びるお話

こんばんわ。くらげです。

ネタ切れが深刻です

いつの間にか74回目の更新ですが、これだけ続けてるといい加減ネタも切れてくるわけです。

アウトプットのためには、その10倍のインプットが必要だそうですが、それが正しいなら1日1万~2万は読む必要がありそうです。

人間の読む速度は1分400字だそうですから、25分~50分ほどの読書は必要ですね。あれ、意外と短い。ツイッターだと150ツイートくらいって考えるとあっさり書けそうな分量でもありますが。

この計算だと普通にネットや新聞やKindleで読んでいますねぇ。インプットはある程度出来ているのでアウトプットは出来ますよね、と逃げ道がふさがれたわけですけど。

とりあえず生きていきましょう

デスカフェ

そういうわけで「ネタがなーいネタがなーい」とうめきつつ読売新聞を開いたら、「『デスカフェ』で死を思う」という記事が目に入ってきました。(2017年1月17日付け読売新聞17面)

また新しい哲学用語かなんかか、と思ったDeath Cafe。お茶を飲みながらリラックスして死について語り合う場のことで、スイスで始まって日本でも少しずつ広まっているようです。

世界的に核家族化が進み、法事や墓参りなどで親族の死を身近にとらえることが少なくなりました。 死に向き合わなくなるというのは一見良いことのように思いますが、逆に死が「どんなものか」というイメージがつかみにくくなり、死に対する漠然とした不安は多くなっている。その反動なのか、終活やデスカフェなど「死」を意識するイベントが賑わっているそうです。

メメント・モリとは締め切りだ

生きることは常に死に近づくことですが、生のゴールである死を意識することは決して悪いことじゃないと思うんですよね。

ほら、人間、締め切りが設定されないと本気でないタイプいるじゃないですか。で、その締め切りの設定って「実際の日時」よりも「覚悟」の問題だったりするじゃないですか。

東大受験したい人にとっては高校3年はみじかすぎますけど、そこらのFランク大学を受験するならあまり締め切り感覚ないじゃないですか。

人生もそれと同じで、最期の瞬間に対してどう「覚悟」するかって締め切り感覚を持つかどうかじゃないかと思うんですよ。

この世界の片隅で

そういうおまえはどうなの、とつっこまれそうですけど、ボクはあと50年は生きたいですね。

でも、障害がいろいろあって結構副作用の強い薬をおそらく一生飲み続けないといけないでしょうから、そのまえにあっさり死んじゃう可能性も高い。障害者の平均寿命は60歳前後だそうですし。 

それでもまぁ、せいぜい、親が死んで、嫁が死んでから死にたいなぁ、という希望はあって、どうやったらそれまで死なないで生きられるかなぁ、とはよく考えます。

特に、嫁はボクが死んだらどうやって生きていけば良いんだろうなと悩みます。今からいつボクが死んでも行政サービスとか受けられるように準備はしてますけど、まぁ、出来るだけあとに死にたい。

死を覚悟するっていうか、締め切りをずるずる先延ばしにしたいな、ということでしょうか。締め切りを破ることにかけては天才的なのでまぁなんとかなると思いますが。

生きることは辛いことですが、障害のある身でここまで生きているからまぁそんなに悪いことでもないなと。

ならばまぁ、日々ダラダラしつつ、ちょっとは人のためになりそうなことを偉そうに書きつつ、嫁と一緒にこの世界の片隅で生きていきたいと思うのです

と嫁に言ったら「世界の片隅より部屋の片隅に溜まっているホコリを掃除してくれない?ゴキブリ出るよ?」と言われましたけどね。

では、今日はこれくらいで。おやすみなさいませ。