【掌編】季節の隙間に落っこちた夜に

今晩は月が奇妙に綺麗です。

澄んで凜とした黒色の中を、煌めかんばかりの月光を浴びた綿雲が轟轟とした風に運ばれています。

重さのある風が駆け抜け、昼間の夏のような暑さも、梅雨空の湿気も嘘のように吹き飛ばし、ぽっかりと季節の隙間に落っこちた夜。

雲はまるでボクを圧倒するかのように流れて、狭いはずの空は今日は子供の頃に連れて行ってもらった、怖いくらいにどこまでも広がる夏の夜の海のよう。

ここは東京の市街地の外れではなく、海の底なんじゃないか。あの夜の月を海底から眺めたらちょうど同じくらい綺麗なんじゃないだろうか。あのときの海は誰と行ったんだっけ。どこか懐かしく寂しい匂いがどこからか立ち上る。

bis136 / Pixabay

「綺麗な空だねぇ」といつのまにかベランダに出てきていたあおが驚いたように言う。「綺麗だねぇ」とボクも返した。シャワー上がりのシャンプーの匂いがする。さみしさの匂いは瞬く間に薄れていく。

夜の海の底に二人でいる。静かな都会の片隅で、優しい闇に囲まれて、ぽっかりと落ちた月を見上げてる。

「さて、帰りますか」とあおがボクを現実に引き戻す。振り向くと蛍光灯に照らされた部屋。テレビでは九州豪雨の被害状況を流している。うんざりするくらいの日常だ。

このベランダから部屋に帰りたくない気もした。「美しい夜には気をつけろ。さもないと戻れなくなる。」とは何かで聞いた台詞だけど、こんな夜は戻りたくない気持ちもよくわかる。

でも、いつまでも嘘のような夜の幻想に浸ってはいられない。あおは既に部屋の中だ。窓を閉める仕草をしながら「蚊が入るから早く戻ってこいや」と急かしてくる。いつもながら風情がないやつだ。ボクはため息をつきつつ、鴨居をくぐった。

Hans / Pixabay

「おかえりー」とあお。「ただいま」とボク。月は静かに昇っている。

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