【掌編】夕焼けの境目

掌編

幻痛というものがある。事故で手足を欠損した人が無いはずの箇所が本当に怪我をしたときと寸分変わらぬ痛みが走るというものだ。

私は綺麗な夕焼けを見るたびに幻の匂いを感じる。夕暮れの匂いではなく、まさしく夕焼けの匂いなのだ。幻痛が「まことの痛み」であるのと同様に、私が感じている夕焼けの匂いも「まことのにおい」としかいいようがない。

夕焼けの美しさはどこか恐ろしい。眺めているとどこかふっと消えてしまいそうな気がする。とくに晩夏の夕日が作る濃い陰の隙間にはこの世界の亀裂が隠れていそうだ。匂いはその亀裂から漏れてくるものかもしれない。

子供の頃に私にとって晩夏の夕暮れは一番心地よい時間だった。頭を垂れ始めた稲穂が夕焼けに映え、そよ風に波打つ。用水路沿いの通学路をひとり下校していると、まるで黄金の海を渡っている航海者の気分になったものだ。

ところで、私は行方不明になったことがある。それもやはり晩夏のことだった。いつもの通り下校した私はどういうわけかとっぷり暗くなっても家に戻らなかった。心配した家族が探しても見つからず、学校や警察、町内会が探しても見つからず大騒ぎだったようだ。そして、翌日の夕方、ふらりと私は家に帰ってきた。

家族や警察からはこの1日でなにがあったか何度も聞かれたが、私は何も覚えていない。普通に学校を出て、普通に家に戻ったら丸1日経っていたのである。病院に連れて行かれたが、特に外傷も無く具合の悪いところもなかった。この事件は未だに未解決である。

それ以来、私は夕焼けのたびに「におい」を感じるようになった。干された藁のような、鼻の奥がつんとするようなものだ。そして、何かを誘うような、それでいて拒絶するような迷いを感じる匂い。

それから数年して、私は都会に出た。夜遅くまで働くことも常態化した今では匂いを感じるような夕焼けを見ることも滅多になくなった。あの黄金の海は、もうない。あの海の中では私は日頃のいじめも忘れられたし、親の喧嘩も見ないで済んだ。仕事は楽ではない。もう一度あの海に戻りたいと思った。

そして私は今、夕焼けを見ている。ビルの屋上から西に沈む夕日を眺めている。眼下に広がるのは黄金の街。そして、逆光で陰の濃くなった街。ああ、そうなんだ、と私は気づく。夕焼けは境目。あの日、私が消えたのはその隙間に魅入られたからだ。匂いが一層強まる。ここにおいで、と誘っている。

もう一度、私は消えよう。次はいつ戻ってくるか知らないけど。

ふと振り返る。大きな金色の陰が。一つ。

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