デバイスの限界は思考の限界から考える障害者に肉体感覚のお話

こんばんわ。くらげです。

note更新しました

今週のnoteを更新しました。

くらげ×寺島ヒロ 発達障害あるある対談 第42回 結婚式は価値観の問題!?感謝の気持ちもいろいろだよね!ってお話

寺島さんの大活躍回です。ぜひお読み下さいませ。

筆は選びましょう

スマホを使うと馬鹿になる

ちと帰りが遅くなって、家でブログ書く時間が削られてますので、スマホで下書きを書いています。

ボクは長文を入力する必要があるときはキーボード必須な人で、フリック入力はあまり得意ではありません。なので、スマホで文章を入力すると雑になりますね。いや、キーボードで打ってもクソ雑いし誤字脱字も多いだろと真実を突っ込まれますと立つ瀬もないのですが。

特に、頭の中で文字が流れる速度と入力に差異が大きいともうだめですね。なのでフリック入力は頭の中で文章がスムーズに流れない。思考もとぎれとぎれになってスッキリしないわけですよ。そうなると考えることもどこか納得のいかない雑なもんになります。いつも雑じゃないのか、というのも禁止です。

デバイスの制限

弘法筆を選ばずとは言いますが、あれは弘法だからできるのであって、我々凡人は入力するデバイスに思考が制限されます。どんな筆でも同じクオリティが保てる、というのはかなかできるものではありません。

ただ、切れ切れの思考をそのまんまぶん投げるにはスマホはとても良いです。ツイッターやラインはもう30字前後でぶん投げますね。このへんがスマホに向かってガーッと考えられる限界ですね。ポメラではもう1000字くらいは休みなくスムーズに考えられるので、やはりデバイスによる「思考の制限」って馬鹿にならないです。

このへんは、ボクがロートルなのもありますが、自由にのびのび考えるためにはキーボードがないとなーと思うのです。じゃ、ノートとペンはというとこれもこれで頭の中の字幕におっつけない。急いで書くと汚すぎて読み返せない。やはりストレスはたまります。

書くのは負担

子供の頃は作文が嫌いだったのは、文章が思い浮かばなかったからではなく、原稿用紙に鉛筆で書くという行為が駄目だったんですね。書くという行為と考えることを並行してやるのがとても苦手だった疑惑があります。そのへん、キータイピングは押すだけだからいいですよ。

頭の中の言葉の羅列が途切れなく転写しやすい。ボクにとってキーボードを打つというのは、喋るよりも自然に言葉を放つことです。ここ数ヶ月はポメラが口より信用できる器官になっています。デバイスの肉体化ですね。まぁ、スマホが肉体化していないだけともいいますが。

ただ、外でブログをかけるようになるのは便利なのは間違いないので、うまく方法を開発していきたいですね。割とヒマじゃないんです。ヒマじゃないんですったら。

デバイスの外部化

自然な意味以外での「身体」

で、このデバイスの肉体化って言葉ですけど、補助器具を使って生活している障害者の人は「自然でない体」を持っていると感じることが多いのでは。肢体不自由の人は杖や車椅子が足と同じ認識を持つことがあり、白杖ユーザーは白杖を目と感じることがあります。ボクは人工内耳と補聴器もセットで「ボク」です。

つまり、体が自然の意味での肉体だけで成り立っていないわけです。障害者として自立するとはこのように「外側」を「体」に取り入れていく作業なのかと。

普通にも起こります

ただ、その事自体が別に特別なことではありません。職人は道具が手に馴染むといいますが、それとおなじです。また、「自分の体」を思い浮かべてほしいのですが、殆どの人は服を着た自分を思い浮かべます。

メガネをかけている人も素顔の自分はまず思い浮かべないでしょう。女性だと化粧をした顔が普通なのではないか。脳が体の範囲と認識するのはなにも実際の体に限定されないということです。

障害者の場合はそれが結構アイデンティティと結びついたりするのが特殊なところかなぁ、とは思いますけどね。ま、「体とはどこまでが体か」というテーマは結構障害者としては興味のあるところです。

では、今日はこれくらいで。

ところで、W-ZERO3のAndroid版はまだですか。5年ほど待っているんですが。はよう!はよう!

くらげ

This website uses cookies.