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バイキン扱いされたボクから、キミへ伝えたいこと

こんばんわ。くらげです。本日は書いてる方も読む方もヘビーなコラムをお送りいたします。 あおからは「また、過去のトラウマをアップロードするのですかそうですか」と言われていますが、まぁ、やるだけやってみましょう。

横浜いじめ事件を受けて

世の中、嫌なニュースが続きます。というか、報道されるのは基本的に悪いことなので過度に悲観的になっても仕方ないのですが、負の創造力の強さをどうしても感じてしまいつらくなることもあります。 ここ数日、大きく報道されているものに「横浜原発避難者いじめ事件」があります。

原発の存在、学校や行政の対応、原発避難者への偏見など多層にも重なった問題が子どもという弱い結節点に負荷がかかり、噴出してしまった事件。 ただ、その一つ一つの問題に対してはボクが語れることはそう多くない。でも、男の子の苦しさは他人事と思えず、心の棘がひどくうずくのです。

男の子の手記にこのような言葉がありました。 「ばいきんあつかいされて、ほうしゃのうだとおもっていていつもつらかった。」

SNSなどで反応を見ると、「いくらいじめでも、そんなことを言うなんて信じられない」という声が上がっていますが、この手のいじめは決して珍しいものではなりません。それは断言できます。なぜなら、ボクもまったく同じいじめを受けたからです。

人間を人間として否定されること

ボクは中学生以前のことをほとんど覚えていません。特に小学生のころの同じクラスだった人や担任の顔や名前については曖昧で、どんな子ども時代を送ったか語ることが出来ません。

しかし、よく覚えていることがあります。「くらげが来たら触られると耳が悪くなるからこいつが来たら逃げろ」とはやしたてられたことです。他にもいろいろないじめを受けましたが、最も人間性を否定されたのはこのいじめでした。

その当時、自分がどんな感情がわき出たかは覚えていません。覚えていられないほどにつらかったのではないでしょうか。今でも、その場面がフラッシュバックするたびに胸が締め付けられるように苦しくなります。時には1日うつろな気分になることもあります。それほどに「ばいきん扱いされる」ことは心に傷をつける行為です。

しかし、この少年やボクをいじめた同級生が特別残虐だったか、というとそうではない。むしろ「どこか違った子」を人間扱いしないことは、最もポピュラーないじめです。

いじめとは差別の素朴なかたち

いじめとは差別の最も素朴な形に他なりません。差別とは違いに対する拒否感です。人間には違うものを徹底的に攻撃する修正があるようです。

しかし、人には違いがあります。生き物は違いがあるからこそ進化してきました、人間もまた違いがあるからそこ多様な発明や発見があり、文明を進歩させてきました。文明とは「多様性」の結晶の他なりません。

人間には多様性があり、同時に多様性を丸ごと抱え込めるだけの力はない、その矛盾がいじめ、いじめを産み出しているのでしょう。

多様性に疲れても

ボクは人間の存在を人間として否定されることほど悲しいことはないと自分の経験から思います。しかし、その否定が人間元来のものなら、少なくともボクの生きている間に潰えることもないでしょう。むしろ、世の中は「多様性を許容すること」への疲れがあちこちに現れています。

でも、そんな世の中だからこそ、「人間を人間として認めること」はより尊いことなのではないでしょうか。遠くの「違う」人々へ簡単にアクセス出来ていまう今こそ、「お互いに理解し合う努力」は貴重なのではないでしょうか。

より平和であるために、より「にんげんらしく」あるために。否定され傷ついた人を抱擁して欲しい。同じ仲間として認めて欲しい。それが「人間を否定された子ども」からのお願いです。

「人間であること」を否定されたキミへ。

そして、この世に無数に存在している「人間であること」を否定されたキミへ。

どれほどキミを嫌う人がいても。キミが人間であるの意味は君自身を含めて失うことはない。だから、キミを人間として認めてくれる人を探そう。 そして、いつか、キミを必要としてくれる人と出会う。その瞬間、キミはキミとをして生まれてきた意味を証明できる。

だから、生きよう。つらいけど、生きよう。ボクたちが生きている意味を証明しよう。

それが、将来のキミから、小さかったボクへのエールだ。

だから、生きる。

くらげ

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