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年頭に「障害者を殺すな」と叫ぶ。そして「生きさせろ」とブログを書く。〜相模原殺人事件を統括する試み〜

明けましておめでとうございます。くらげ@地元です。

無事帰省しました。

前回の記事では帰省にあたっての不安な点などを書きましたが、なんとか無事に山形に着きました。

実家で酒を飲んで年越しそばを食して、宿に戻ってきたところです。

新幹線の中ではKindleで買ってあった「現代思想 2016年10月号 相模原障害者殺傷事件特集」を読んでいました。

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年末年始にふさわしい陽性の楽しい本ではないですが、昨年中に目を通しておきたかったのです。

相模原障害者殺傷事件とボクの居心地の悪さ

昨年は数限りなく事件が起きました。その中でも相模原殺人事件はボクにとって一番衝撃的な事件でした。

あの事件が発生したとき、最初に感じたのは「関係ないし」でした。つまり、無関心で通そうとしたのです。

殺されたのは障害者といっても重度知的障害の人で自分には関係ない」と距離を置いていたのです。

しかし、時間が経つにつれて容疑者の犯行理由やそれに賛同するネットの声を見るにつれて「あ、この世界は障害者をここまで忌々しく思っているのか」という恐怖がこみ上げてきて、体調を崩し精神的に興奮するという経験をしました。

ボクは障害者です。まがいなりにも仕事をして自立して嫁と暮らしている。しかし、福祉なしでは生きられない。税金がかかるということでは殺された方々と変わるところはない。

ただ、健常者からは「あなたは働けるから問題ないよ」と言われることもある。その言葉をうれしく感じるボクもいる。

一方で、それではいけない。もしボクが障害が進んだり他の障害や病気を負って働けなくなることもあり得る。だから、「働けることが問題なのではない」といわねばならないと考える自分もいる。

その狭間で、「生きていて良い障害者とそうでない障害者はいるのか」と自問自答することを続けていたのが昨年の後半だった。正直、この事件は障害当事者性があるボクとしては「忘れたい事件」なのだ。

まっすぐに事件を見据えること

しかし、この事件を忘れて今年を進むことはできない。人間、嫌なことの中にこそ明日の進む道が見えてくるという。だから、年末に相模腹障害者殺傷事件を思想的に考察することで見えてくる今年の道行きがあるのではないか、と考えたのだ。

まだ全部は読めていないが、曖昧模糊としたボクの気持ちがいくらか言葉に育ってきた。

ボクがこの事件に対する据わりの悪さは、殺された方々が「施設」という隔離された世界にいること。そしてボクが自由にその隔離を強要した世界にコミュニティで生きているという断絶があることだ。

まず、ここでボクと殺された方々に「隙間」が生じている。その隙間には様々な社会制度や日本社会の構造・ひずみが埋まっている。その隙間が見えてくると、障害者と言っても当事者といっても深い分断が見える。

しかし、ボクは今、その制度の断絶を超えて「当事者」として殺された側に立つ。立たねばならぬ。立つことで「障害者として生きる」と言う自覚を持つ。

障害者はお荷物だ

障害者がお荷物であるという主張には「迷惑ではない障害者なら生きて良い」というニュアンスがある。狡猾に「障害があるから迷惑なのだ」という輩がいる。 障害者は迷惑をかける。それが真だとする。

だ か ら ど う し た。

それが決定的に障害者を排除して良い理由なのか。もっという。それは「このボクを」殺して良い理論なのか。思想たるのか。

ボクはこれまで迷惑をかけてきたし、これからも迷惑をかける。でも、それがボクをこの世界から排除して良い理由だとはとても思えないのだ。 すべての命が等しく重いというのはリアルに感じることは難しい。しかし、ボクの命を守るために「障害者を殺すな」と叫ぶのはボクのリアルだ。

今年は「生きるために叫ぶ」ことを指針としてこのブログを進めていきたい。 思想が人を殺すなら、言葉は人を救えるはずだ。そう信じて、毎日の更新を頑張っていきたい。

では、今回はこれくらいで。では。

くらげ

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