こんばんわ。こんなツイートが久々に100RT超えしてあわわわわとなっているくらげです。
なお、このツイートをしたときはお酒飲んでました。駄目じゃん。
さて、新年早々すったもんだあったベビーカー騒動ですが、1週間足らずで下火になった模様ですね。
この件については、ボクも思うところはあるのですが、幾重にもレイヤーが重なって何を言っても怒られる可能性があるので今の時点では「まずみんな落ち着け」と水ドンしたいところです。
さて、嫁が介護福祉士の資格があり、福祉機器大好き人間というのは何度か紹介しているところです。
で、嫁は酔うと区の福祉サービスガイドや福祉機器のカタログやパンフレットを引っ張り出してボクに「この車いすかっこいいよねー」「このヘッドギアの性能はー」とぐだぐだ説明してきます。ボクを福祉機器の虜にさせたいのでしょうか。
なお、補聴器の簡単なメンテナンスは嫁がしてくれます。
まぁ、そういう嫁がいますと、耳学問で車いすとかにもちょっとは詳しくなります。
なので、このツイートを見たとき、ああ、その心配はありますね、となりました。
車いすというと足が動かない人のもの、というイメージがありますが、当然ながら身体全体が動かない人も使います。
バギータイプの車いすは嫁のツイートによればこんなもんです。
バギータイプの車いすは身体全体が動かしにくく、不安定な方がよく使う車いすです。カスタム品も豊富で、安定性を向上させることができますし、レインカバーや虫除けカバーもある製品もあり、本人も介護者も楽ができますね。
嫁は展示場でバギータイプ車いすを試乗したら「これは革命だ」というくらいに他の車いすとフィット感が違ったそうです。
この車いすは確かにベビーカーに似ており、ある程度以上大きなお子さんが乗っているとびっくりすることもあるでしょう。
しかし、人間、まったく無意味にそうしている、ということは少ないのです。
他人から見たら無意味なことでも、本人たちにとっては必要なこともある。
たとえば、ボクと嫁が歩くとき、よく嫁のリュックを握っています。これは嫁が倒れそうになったり急に走り出したりする時に備えるためです。また、外で話すときは嫁の顔のすぐそばに身体をかがめて顔を近づけます。こうしないと声が聞こえないからです。
おそらく、端から見たら異様でしょうけども、そういう必要があるのでやっているだけなんですね。たんなるバカップルなのではないのです。
ただ、そういうことは知らない人にはわからない。そんで、人間はわからないことに対しては不気味さや怖さを感じます。
とはいえ、常に「説明し続けること」は不可能だし、大して意味があるものでもない。 ならば、ボクたちができることは「不思議なことを白眼視しない こと」ではないでしょうか。
よくわからないものを見ると、嫌な気分になったり恐れたりします。でも、危害がないようならとりあえず気にしない努力をしてみる。
ボクは寛容さとは「気にしない努力」によって培われるのではないかと思います。
無関心なのではなく、意識的に「失礼だな」ということを気にしなくなる技術。
ベビーカーに大きな子どもが乗っていても「気にしない」。変なカップルがいても「気にしない」。子どもが泣いていても「気にしない」。
もちろん、気にしないでいられる範囲は人によって大きく違いますが、その範囲を自覚することはできるはずです。そして、その範囲外に対してどう振る舞うか。
これはある意味で「自分を殺して建前的に動く」といっても良いかもしれません。しかし、素の感情は残念ながら差別的なことが少なくないのです。
ですから、公共の場では「本音はどうであれ差別的に振る舞わない」という「気にしないふり」は世の中をスムーズに動かす潤滑剤なのでしょうね。
でもまぁ、気にしないふりは疲れます。そういうことに対する疲れの特効薬は「聞くこと」「知ること」です。なぜそうなのか、を知ると恐れは減り、興味が出るかもしれません。
知ることは、恐れと差別に惜別するために最も有効な手段。ですから、なぜと思ったら調べてみる。その人に勇気を持って聞いてみる。「気にしない」から「興味を持つ」→「理解する」のサイクルが回せると良いですね。
とはいえ、ボク自身もそういうことができるかというとまったくそういうことではなく。だからこそ意識して精進していく人生の楽しみがあります。
世界は寛容さを失っているとよく言われます。
そういう時代だからこそ「気にしない大切さ」をかみしめてみてはいかがでしょうか。
では、今日はこれくらいで。
なお、ボクのブログの文章が下手なのも気にしないでください。デフォルトです。
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