こんばんわ。くらげです。
聴覚障害があると便利なこともありまして、アパートの近所で休日に外壁修理のためにガンガン工事していても聞こえないことですね。おかげで昼寝を中断されることなく、寝過ぎて身体が痛いです。
一方、耳はそれほど悪くないはずのあおも同じ環境で午睡をむさぼっていたので、工事の音などより昼の眠気のほうが強烈なのかもしれませんが。
さて、先日から盛り上がっている障害当事者とその親の交流・意見交換についてですが、ボクがいろいろ考えている間にツイッターでかなり盛り上がってきました。
特に、発達障害成人当事者が障害児の親にいいたいことを投稿するタグができまして、これはTogetterにまとめられています。
こういう形の意見交換もあるのか、と逆に驚いておりまして、ネットの奥の深さに改めてびっくりしましたね。
一方で、このタグについて障害児の親や一部の当事者からは「このタグはあまりにも親に負担をかけている」という反発も出ていますね。
こういう意見が出るのも当然で、障害児の親は障害児を育てることに対しては(そもそも子どもを育てることに関して)素人で、素人に高いスキルを求めるのはそれこそ精神的な圧迫感をもたらすことです。
で、成人当事者には「ああしてほしかった、こうして欲しかった」という「酸っぱい葡萄」的な「怨嗟」のようなものがあることが多い。それが親御さんに噴出してしまうこともある。
その毒々しい噴出に当てられた親御さんは更においこまれて障害に対する理解がますます遠のき、子ども自身も辛い思いをする、ということもあります。(聴覚障害業界で結構見た)
なので、当事者とその親の交流という形はある種のクッションが必要となります。生々しい「当事者の声」は親にとって暴力になりがちです。
では、どういう形が望ましいかといえば、当然「クッション役」を入れることですね。ある程度発達障害の知識がある定型の専門家とかが両方の「通訳」をする。
障害児の親は障害のことを知らないかもしれませんが、逆に障害者は「障害者の親(健常者)」のことも知らないです。そのギャップは知識がある人が橋渡ししないと単なる言い合いになりかねない、というのはあるよなぁ、と。
というわけで、良質的な情報を交換したいなら、個人として1対1でつきあうのでも、不特定多数でやるのでもなく、オープンな形のシンポジウム形式でパネラー+司会者の形で展開するのが大事なのか、というところに思考が着地した次第です。誰か企画しませんかね?
ちなみに、ボクはただでさえ辛い思いをしているであろう親に「アドバイス」ではなく「自分はこうして欲しかった」という想いをぶんなげるのは、そうしたくなる気持ちは痛いほど理解しつつ、やってはいけないことだと自戒しています。なんで、こういうツイートをしています。
人間、いろいろ考えたり理解したり視野を広げるにはある程度の挫折と大きな余裕が必要です。そして、親というものには基本的に余裕はありません。ですから、「できなことは行政にぶん投げる」ことで余裕を作れるようにしてほしいですし、行政もキャッチ能力を高めて欲しいです。
で、この話の発端になった横浜市の自閉症デーの成人障害者に対して理解がないなぁ、意識を変えて欲しいなぁ、という意見の高まりも合わせて、一つ成人当事者と親御さんが共闘できる方向性が出てきます。
それは「行政の障害者に対する支援を広げるよう要望していく」ことです。まぁ、すなわち政治にコミットすることですが。視線を「政治」にあわせて政治家や行政にどんどん草の根運動で要望を高めていく。まぁ、そういう働きかけをしているグループも幾つも出ているので、調べてみても良いでしょう。
まぁ、これは他の障害が何十年にもわたって闘い続けて来た道でもあるので、発達障害の闘争はまだまだこれからなのかな、という気がしないでもないですが。
まぁ、あまり気張らずやってきましょう。いろいろ厳しいことを書きましたが、人間、なんとか生き延びる人の方が多いんです。なんとかなりますよ。
ま、ふんばっていきましょう。では。
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