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「みんな違ってみんな駄目」から考える発達障害もそうでない人も助けられる優しい世界ってお話

こんばんわ。くらげです。

なんか阿呆な人が来ました

勢いでこうなった

本日は「ボクの彼女は発達障害が好きだからくらげさんとあおさんに会いたい」という人がいましたので、「んじゃ、今から来る?」となってガチで来やがった阿呆な人がいましたので、心底飲んでます。吐くまで飲んだのは久しぶりですね!

交友は広めて損はない

発達障害があると友好範囲はかなり狭まりますので、こういう機会に当事者同士のつながりを強化していくのは悪いことではないのです。当事者といっても色々なのでなにも団体になるのではなく友達になっていくのも大事だと思いますよ。

本日来てくれた人はうちらの阿呆さを実際に見て楽しかったそうですが、かなり無礼なことしかしてないので普通の人には怒られるのですが、変人にはこう受けますね。従ってボクの知り合いには変人の濃度が濃くなっていくわけですが。

ちなみにあおがOKだせば週末は誰でも来て良いのよ?たぶん。

発達障害「だから」困っているわけではない

さて、本日の本題。なんか札幌市のホームページで公開している発達障害の紹介が「誰にでも当てはまりすぎる」と話題になっていますが、そりゃ、誰にでも当てはまるよなと。

発達障害は実のところ「誰でも」その傾向はあるんですよ。人間、誰も彼も「空気が読める」「曖昧な指示を理解できる」「片付けや整理が出来る」わけではありませんよね。そういう意味では誰も彼もが「支援」を必要としているわけです。

相対的な問題です

では、発達障害は何が問題かというと、「閾値」と「困り度」の問題です。聴覚障害のように絶対的な数値で表せるものではなく、相対的にどう困っているかということですね。

まぁ、聴覚障害も「聴力の程度」と「困り度」は以外とリンクしないもんなんですけど、まぁ、普通の人にはない「聴覚障害」があるという面で分かりやすくはありますが。

発達障害に気づくスキル・語るスキル

で、発達障害が聴覚障害と違ってなかなか絶対的に困り度を表しにくいです。そうなるとですね、本人の「困り度」を重視すべき、となりますよね。しかし、発達障害者本人が「どう困っているか」を語るのは意外と難しい。誰も彼もがボクみたいに障害を語れるわけではない。

となると、周囲が発達障害の人を見て「こういうことで困っているんだな」とか「こういうときにパニックになりやすいんだな」と推察するのも必要なんですね。気づいてあげる、というのもとても大切な支援です。

しかし、同時に発達障害の人も障害を勉強して「自分がどう困っているのか」を表現する努力をする必要もあります。そういう「語ること」も支援を得るためにとても大切なことです。

発達障害理解のための糸口

本日来てくれた方は「ボクの彼女は発達障害」を読んで、自分の障害とはどういうものかを語る糸口を作ることが出来たそうですね。自分の本が人の役に立つのはとてもうれしいものです。

まぁ、どんな本でも良いので「発達障害とは何が困るか」の理解を深めていていくことは「そんなの普通じゃん」という圧殺に抵抗するためにも必要なんですね。

「普通」を支援していく世の中へ

普通だから生きやすいわけではない

しかしですね、「普通」の状態とはそんなに生きやすいものでしょうか。だれもがそれなりの「生きにくさ」を抱えて生きているのがこの世の中なのではないでしょうか。それならば、お互いがお互いに「支援」しあうというのが「良い世の中」にしていくために不可欠なのではないでしょうか。

発達障害は確かに「変」かもしれませんが、誰もがそこそこの「変さ」を抱えて生きています。ならば、「変なままにいられる世の中」ってのが誰にとっても生きやすい世の中かもしれませんね。

優しい世界を一歩でも

まぁ、そんな優しい世界になることはないでしょうけど、自分の周りを少しでも「生きやすく」するために、皆さん踏ん張っていきましょう。くらげはそんなあがいている人たちを応援します。なお、そんな社会にするための参考図書として「ボクの彼女は発達障害」はいかがでしょうか?(ダイレクトマーケティング)

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じゃ、今日はこれくらいで。皆さん生き延びましょう。では。

くらげ

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