こんばんわ。くらげです。
早くもゴールデンウィーク最終日ですが皆さん如何お過ごしでしょうか。
ボクはゴールデンウィークは毎年山奥で自己研鑽してくるのですが心身ともにリフレッシュできてけっこう爽やかです。
さて、本日、ツイッターを見ていたら障害者の配慮についてツイートが回ってきました。
よくこの配慮の話は「公平」と「平等」の違いとして話されることがありますし、有名なイラストもあります。
日本は公平を重視していて平等はあまり重視されないというのはよく指摘されるところではあります。
障害者配慮とは障害者に「ゲタ」をはかせる物ではなく、健常者と同じスタートラインに立つために必要なもの、という認識は障害者支援に関わっている人には常識です。
しかし、常識は疑った方がいいとボクは学校で教わったので疑ってみると、障害者支援に関わっていない人の大半は「障害者に配慮したら健常者と同じ競争力を持つ(こともある)」ってのがまず認識できないんじゃないでしょうか。
どういうことかというと、障害者は障害者だから「普通の仕事」「普通の勉強」ができないというのが一般的な常識ではないか。
これはボク自身の経験から否定しがたいことではあります。
ボクは人工内耳と補聴器をつければある程度はなんとかなりますが、細かいところで聞き取れないことは非常に多いですし聞きながらメモを取る、考えながら話すことはとても苦手です。
その隙間を埋めてもらえればそこそこ仕事はできますが、隙間を埋めればくらげが仕事で戦力になる、ということが普通は思いつきません。ただの無能、となるわけですよ。それなら聞こえなくてもいい仕事をさせておけばよいとなります。
そこをボクはなんとか必要性を訴えてできる仕事は積極的に引き受けて必死にこなして職場での自分の居場所を拡大してやっと落ち着いてきたところです。
障害を理解し説明するスキルは障害者が働く上で「ただの無能」のままなのか、そうでないの分水嶺にすらなり得るとボクは考えています。
理想論としては障害者自身がそんな「ムダな」努力をしなくてもいい世界になって欲しいです。健常者が障害者のことを理解して、行政もしっかり社会に対する教育をして欲しい。でも、それは「今」はありえないことなのです。そこは開き直って理解されなくても生きていくしかない。
しかし、今、ボクが障害者として生まれてもこう仕事をして生活できているのは、これまでの無数の障害者の苦しみ・訴えが重なって社会が変わってきたからです。
ならば、ボクもまた将来の障害者のための踏み台になりたい。ボクが何か訴える力があるとしたら、それは未来のためへの声になりたい。仕事をすることで周囲の方々が障害者に対する眼が変わればよい。本気でそう思います。
繰り返しますが、障害者の配慮の問題とは「配慮すれば障害者自身が何かができる」という意識の欠如です。それを覆すためには障害者自身が「できること」を発揮していくことではないでしょうか。
生きることは語ること。語ることは次の世代へバトンを渡すこと。それぞれが持ち場で生きて語ること、それそのものが啓発の他なりません。
というわけで、明日からの仕事を頑張りましょう。辛いけど生きていきましょう。皆さん、持ち場踏ん張りましょうよ。でわ。
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