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社会的なマイノリティは良い哲学者になる素質があるのではないかというお話

こんばんは。くらげです。

本日の出来事

本日は久々に人と会ってきました。

VALUで知り合って以来2年ほど大変親身になっていただいてる方なのですが、九州にお住まいということもあって、今回初めてお会いしました。

この方の肩書は「企画屋」という割と胡散臭いのですが、割と有名な所で企画をしてたりするとんでもない人だったりします。はい。

今回は単純に一度会って話しましょうってことで秋葉原でコーヒーすすりながらお話したのですが、感性がとても似ているこということもあってとても楽しかったですね。

特にこれまでの生い立ちを話したら「俺もアウトローだと思うけどくらげさんの経歴からすれば何もしてないと同じだわ」とすごくウケまして、まぁ、こういう「障害者というアウトローさ」を武器にこれからも戦ってきたいと思います。

これから自分はどうすればいいかみたいな話もしたんですが、「表に出て動く」というよりも「ライティングの能力を100%使って出来ることを増やしたほうがいストレスがないのでは」というアドバイスをいただきました。書くための環境を整えていくのかを前提に組み立てていくのもいいかもしれませんね。

ということで大変学びのある出会いでありました。

障害者であることは哲学の問題である

でまぁ、本日話した中で、自分の中にも気づきがあったんですが、いわゆる「障害者の生きる覚悟」というのはとても健常者にはおつかないところがあるんじゃないかなと。

社会的なマジョリティーというものは何かちょっとトラブルが発生しても「死なない」という安心感みたいなものがあると思うんですが、社会的なマイノリティーは「何かあったら俺は死ぬんではないか、社会からはじき出されるんではないか」という不安を抱えつつ生きていることなんじゃないかなと。

で、いやが応にも「死ぬ」覚悟を背負って生きていることは、それだけで面白いことだし、哲学的な行為であるんじゃないかなというふうに自分は思っていて、それをどう書物に生かすかということを考えていきたいなぁと。

昔のギリシャの偉い哲学者は哲学者の悪妻がいいと言っていたとかいないとかという話がありますが、アレは要は「何らかの苦難を背負っていたほう生きる意味とかを真摯に考える」という意味ではないでしょうか?そういう意味では障害者はこの命の危機無き社会で、いい哲学者になる素質があると思うんですよ。哲学者になりましょうよ、みんなで。

このくらいで

では、本日はこれくらいで。皆様、悪条件を引き受けつつ踏ん張っていきましょう。では。

くらげ

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