「聞こえないことは精神的な難民」とか言ってたら「存じダウン!」と怒られたお話

(ヘレン・ケラー:Wikipediaより)

こんばんわ。くらげです。



聞こえない親の大変さ

昨日は弟夫婦の次男の誕生日(1歳)の誕生日パーティーに招かれましたので遊びに行ってきました。

長男のほうはもうすぐ3歳で語彙も増えていて正月にあったときよりよく喋っていました。ただ、ボクは子供の高い声がよく聞き取れないので何を話しているのかよくわからない。ちょっと残念ですね。

こんばんわ。 ネタが枯渇中です 新年2日目にしてブログのネタが思い浮かばずに唸っているくらげです。 2ヶ月近く毎日書いておりますと...

ただ、弟もやはり子供の声が万全に聞こえるわけで無いらしく、その辺は親としての苦しみはちょっと想像できないですね・・・。

ボクの母も耳が悪いのですが、「あんたらが子どもの頃、一番辛かったのは喋りたがる時期に話をしっかり聞いてあげられなかったこと」と聴覚障害ゆえの悩みを振り返っていたことがありまして、聴覚障害の難しさは本当に「人との関わり」なのだなぁと痛感します。

聞こえないことは人との距離ができること

昔本読んだ本によるとヘレン・ケラーは視覚障害と聴覚障害のどちらが辛いかと問われて「視覚障害は私と物を隔てた。聴覚障害は私と人を隔てた」と答えたそうです。

視覚障害のある方の見方からすればどうかはちょっとわからないですけど、聴覚障害のほうは間違いないと断言できます。

聴覚障害を持つことは精神的な孤独を人一倍抱え込むことです。健聴者の断層は、コミュニケーションを行うたびに「聞こえにくい」ことを突きつけられ深まっていきます。人と話をすることが「ひとりぼっち」であることをより強調することもあります。

これは情報保障や手話があればいいか、というとそういうものではなく聴覚障害にどこまでもついて回る業のようなもんですね。精神的な難民といえるかも知れません。

存じダウン!

というネタはどうでしょう、とあおに聞いたら「存じダウン!」とか叫びやがりまして。(※存じダウン=存じ上げないの逆。すなわち知らんがな)

「あんたが耳が悪いからダメとか思ったとき無いですよ」
「じゃ、なんだと思っているのですか」
「歩く防音室で聴覚過敏持ちにはうらやましく思ってるわ!」
「そこなの!?そこなの!?俺の聴覚障害に対する理解はそれなの!?」
「だいたいあんたの聴覚障害を深刻に考えたこと無いわ!」
「なにげに凄まじいこといってますね」
「耳が聞こえないからって直ぐ死ぬわけでは無いでしょう」
「アッハイ」
「そもそもうちは面白い人とつきあっているのであって聴覚障害者とつきあってるんではないのです
「アッハイ」
「なので面白く生きてくれればそれでいいです」
「それはそれで難しい要求だと思います」
「それでいいのです」

とかまぁ、そんな慰め(?)を頂きました。なんつーか本当に割れ鍋に綴じ蓋ですねぇ。

なお、本日の面白会話としては

「ここに書いてあるメイリオゴシップってなんですかね?」
「それはメイリオゴシック!見やすいフォントのゴシップってなに!?老人とかでも見やすフォントだよ!?」
「老人のゴシップでしょうか?老人同士の不倫とか?」
「想像したくねぇわ。そういや、前にフォント擬人化ってのがあったな」
「ホントジジィ化?」
「老人から離れろ!フォント擬人化!」
「ああ、フォントを人にするのね。ホントにわからん」
「あんたの聞こえの理解がフォント以上にわからんわ!」

というのがありました。脚色してません。

まぁ、聞こえにくいなら聞こえにくいなりに面白く生きていきましょう。ま、キツいですけど。

さて、皆さん、踏ん張りましょう。でわ。