誰もが生きていける社会と障害者は「殺される側」か?というお話

仕事
dassel / Pixabay

こんばんわ。くらげです。

タイトル詐欺

帰宅途中にニュースをなんとなしに眺めていたら、気になるタイトルが目に飛び込んできました。

発達障害を“流行”させる私たちの自己防衛の牙

発達障害が「社会性の障害」ってそれ100年前から散々言われてるからと、どんな阿呆なたわごとを載せているのか気になってクリックしてしまいました。

しかし、どういうわけかタイトルと内容が一致しておらず、たびたび本ブログで取り上げている東京大学先端科学技術研究センターの熊谷晋一郎先生が「国民生活・経済に関する調査会」に参考人として質疑を行ったときの取材記事でした。

タイトルの発達障害のブーム云々は記事の本題ではまったくないのですが、編集部が「キャッチーだから」という理由でこのタイトルに改悪したんだと感じてます。

生きていていいのか?

それはさておき、記事中では熊谷先生の質疑の一部が掲載されていますが、ボクが最も心が動いたところを引用します。

……そのなんといいますか……、非常に難しいんですけど、能力主義といいますか、メディアを通じて知る国内外の政治の動きの中で、『私たちは生きていていいのか』と不安にさいなまれている人(障害者)は非常に多くいます。

仕事をしていても思うのですが、一般的な仕事では「能力が高い」ことより「まんべんなく能力が欠落していない」ことが上司や同僚の評価を得やすい。もちろんそうでない職場もあるでしょうけど、減点主義が普通なんじゃないかと。

そういう状況だと特定のことに欠落がある障害者はとても生きるのに苦労します。そして、そういう欠落がある人に対してはわりとナチュラルに「生きている価値はない」とSNSや飲み屋の会話で「そうだねー」と話の肴にされて終わり、の風潮は鈍感なボクでも感じることはあります。

ということを以前ツイッターに苦渋を込めて書きましたら、「くらげさんは能力が高いから問題ないよ」とリプライをいただき、さらに苦虫をつぶしたような顔になりましたね。そういう能力による「生死の選別」が問題、ですので。

障害者は「殺される」側か?

熊谷先生はこうも続けます。

ですから……、政治には、『生きていていいんだ。そこは党派を超えて、みんなでコンセンサスが取れている』というのを、一丸となって発信していただけると、明日も生きられるというか、そういう気持ちになれると思うんです」

この切実なる願いは痛いほどに共感できるのですが、おそらく政治は「(誰もが)生きていていいんだ」というのではなく、「誰が犠牲になるか」選ぶものだとボクは捉えています。国の本質とは暴力性にあるからです。また、その政治の主導権が「マジョリティ」にある以上、ボクは障害者が「殺される側」から抜け出せることはないのだろう、と諦観しています。

また、生きるのにはカネがかかります。誰もが生きられる社会はとにかく金が必要です。この金をだれがどう捻出するのか。もちろん、それは国の仕事でありますが、国は無から金を生み出せるわけではない。税金という仕組みで我々の懐から出ています。誰だって税金は収めたくないのですから「税金を更に増やしてでも誰もが生きていける社会にする」といってもそれほど支持は得られないでしょう。

仕事しましょう

とはいえ、生きていかないといけないわけで、そのためには少しでも健常者に「評価」されないと金にならんのです。その自分に対する「評価」というものに追従することは、また「能力はない人はだめ」ということの再生産のほかならぬのではないか、と頭を抱えるところですね。

ボクは「誰もが生きられる社会」というのは理念でありますが、同時に現実的には「どう自分が死なないように立ち振る舞うか」を見据えて動きたいなと。

まぁ、具体的にはいくら嫌でも仕事には向かう、ということで一つ。これも大事な戦い方ですわな。

ま、あすも仕事なのでこれくらいで。でわ。

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