こんばんわ。くらげです。
noteを更新しました。
今週の「くらげ×寺島ヒロ 発達障害あるある対談 第54回」を配信しました。
どれだけ自分の服装・・・という衛生概念が酷かったかを振り返るともう頭を抱えるしかないですね。
本当に自分が臭いこととかシワが酷いとかよれてるとか「わかる」けど「何が悪いか」は納得できず注意されてもイライラするだけでしたからねぇ。ほんと同棲できて叩き直されましたねぇ。
あきらめの力
さて、本日の本題は「あきらめのチカラ」です。(あずきのチカラを肩にのせながら)
他のブログを定期的に読むことは少ないのですが、ほっしーさんの「双極系男子のあたまのなか」というブログはたまに読んでいます。
今日のブログは「楽に生きるために、人生をあきらめてます」というタイトルでして、非常に共感したのでボクにとっての「あきらめのチカラ」を考えてみたいなと。
普通の人にはなれない
健常者と比較できない
最初にほっしーさんとボクの違いをはっきりさせておくと、ほっしーさんは「自分の弱みばっかり見つめて改善しようとしてる人も同じですよ。弱み改善したって、普通の人になるだけじゃん。」とのスタンスですが、ボクは「努力したところで普通の人にはなれない障害を持つ」とのところからのスタートです。
となれば、個別の「能力」で諦めるのではなく、障害者として「健常者と比較すること」そのものを「諦める」ことがボクにとって人生が楽になるあきらめのチカラです。
生きる意味の問い直し
ボクはもう自分は健常者になれない、健常者と同じ土俵で評価する・されるのは無理だ、という認識を持ててから「じゃ、どうすれば生きていけるのか」という問い直しが出来て、そこから再生しましたね。これ、28歳くらいの時です。
わがままを言ってもいい
具体的にはもう「出来ないモノは出来ない」とわがままを言っていいんだとか、ある程度出来なくても許されるとか、そういう「弱さ」をさらけ出すことは悪いことじゃないし、それでも生きていくしかないんだ、という前向きに逃げる、前向きに諦めることを意識するようになったんですね。
あきらめられるようになるには
じゃ、諦めるためにどうすればいいんでしょうか。まず、徹底的に心折れてください。挫折してください。その後這い上がってください。以上です。
いや、冗談じゃなくて、自分は弱い・問題があるとあきらめるって絶対一度はそういう「挫折」から生まれるんですよ。順調な時に「諦める」なんて発想は出ませんから。
いつかはあきらめるときがくる
もちろん順調に進めるならそのまま順調に人生終えられればいいんですけど、障害があるとなかなかそうも行きません。というか、人間、障害や病気を持たずに死ねる人が年々珍しくなりつつあります。
つまり、人間、どっかしらで「普通の人」であることを断念しなきゃいけないことが増えてるんですね。となれば、どこかで挫折しきって、そこからそのまま挫折するか、這い上がるかで人生の価値が決まって行くというのが持論です。
これはボクが高校時代に読んだ堕落論から影響を受けた考え方でもあるのですが。
先ず裸となり、とらわれたるタブーをすて、己れの真実の声をもとめよ。未亡人は恋愛し地獄へ堕おちよ。復員軍人は闇屋となれ。堕落自体は悪いことにきまっているが、モトデをかけずにホンモノをつかみだすことはできない。表面の綺麗きれいごとで真実の代償を求めることは無理であり、血を賭け、肉を賭け、真実の悲鳴を賭けねばならぬ。堕落すべき時には、まっとうに、まっさかさまに堕ちねばならぬ。道義頽廃、混乱せよ。血を流し、毒にまみれよ。先ず地獄の門をくぐって天国へよじ登らねばならない。手と足の二十本の爪を血ににじませ、はぎ落して、じりじりと天国へ近づく以外に道があろうか。
折れていい環境を作る
まぁ、変な話「折れてもいい環境」を作りつつ折れる準備をする、と言うのも一つの方法ですよね。ボクの場合はライターの内職をしつつ本業してましたけど、これは「本業」で折れても最低限生き延びる道を確保する意味がありました。(本業でやっていけるという確信を得て内職は辞めました)
あと、ボクがいつ倒れてもあおが一人で生きられるようにホームヘルパーに登録しておいたり色々なところに手はずを整えているのも「挫折すること」を前提にしているからです。
こういうのは周囲の方も地道に折れそうな人を折れても最低限生きていけるように整えていくことって大事ですよね。
まぁ、そういう挫折を踏まえて、みなさん踏ん張っていきましょう。今日はこれくらいで。でわ。