津久井やまゆり園に向かって「静けさ」の中に感じた「時間の間隙」についての話

思考メモ

2021年7月25日で「障害者連続殺傷事件」が発生から5年目を迎えた。

私も妻も障害があり、あの事件には心底衝撃を受けた一人で、被害を受けた方々をある意味「仲間」として受け止めている。

また、私は2018年にNHKに「障害者の命の価値」を考えるシリーズの一環で取材を受け、その中でやはり同じ時期に津久井やまゆり園に向かっている。当時はフェンスがあって入れず外側から合掌させていただいたが、色んな思いが渦巻いて涙が止まらなかったことを覚えている。

25日の朝の報道で津久井やまゆり園に献花台が設けられ一般人でも入館して献花ができるとしった私と妻は、ささやかでも改めて祈りを捧げたいと津久井やまゆり園へ車で向かうことにした。

ビルや家屋が果てしなく続く都心を通り抜けると、鮮やかな深緑が広がる山域が広がる。最寄りである相模湖東ICを降りてゆるい山道を少し進むと、山と谷の合間をを縫うように造られた集落がある。その中に津久井やまゆり園があった。

津久井やまゆり園は道路から見るとそれほど広くは見えない。しかし、駐車場へ向かうと建物が谷側に向かって下がるように作られていて、存外に大きな施設だと言うことがわかる。再建された建物は真新しく、水が流れ落ちるモニュメントが真夏の陽射しに映える。ここで日本中を震撼させた陰惨な事件が起きたとは全く感じられない。むしろ、無音に近いような静けさすら感じた。

駐車場から正門の方に向かうと、マスコミ関係者や訪問者に対応する職員は20人ほど集まっていたが、コロナの影響もあるのだろう私達のようにふらっと訪れる人もそう多くはないようだった。そのマスコミにしても義務的に取材を行っている感じであるし、雑談しているような人もおらず、騒がしい感じはまったくしない。

献花台は犠牲者を追悼するモニュメントのすぐそばにあった。モニュメントは皿のようになった台の中に「ともに生きる社会かながわ憲章」が刻まれていて、その上を水が静かに流れている。名前も公表されぬ命を忘れぬように弔うという矛盾を背負っているそれは、なにかを蓋をする鍵のようで、それでいてなにかを残そうする爪痕のようにも感じた。

献花台に道中で買った花束を捧げ、数刻目を閉じて、名前も顔も知らないけども、確実にここに生きていた方々の冥福を祈った。そして、目を上げると、施設を見下ろすように谷向こうの観覧車が見えた。でも、今はその観覧車も止まっていて、まるで時間そのものが止まっているようだ。この施設に住む利用者は毎日を静かに過ごしたのだろうか。そして、新しくなった建物に住む方々も静かにゆっくりと暮らしていくのだろうか。

この場所で起きたのは、たった一人が死者19名負傷者27人という被害を生じさせた日本に類を見ない事件だった。これだけの犯行を行うには、それ相応の時間がいる。そして、その時間はこの「静けさ」によって作られた「間隙」だったのではないだろうか。

植松がなぜこの犯行を犯したのかは正直わからない。差別意識だったという論調もあれば、逆に障害者に優しかったという証言もある。それぞれに本当のこともあれば正確でもないこともあるのだろう。でも、その犯行を可能にする「時間」があったのは事実で、それが津久井やまゆり園が「ここ」にあったことと強く結びついている。この場所は静かなのだ。

津久井やまゆり園が「ここ」にあったのはなぜだろうか。それは静かでのんびりとした時間を障害者たちが過ごせるようにだろうか。確保できる十分な土地がほかになかったからだろうか。ただ、あえて「静か」に「ひっそり」とするような設計があるように感じてならなかった。

この事件が起きた「要因の一つ」が静けさであるならば、ここに再び多数の利用者を集めるべきではないし、実際に津久井やまゆり園をこの場所に再建するのではなく、もっと小規模なグループホームを作ろうという議論もあった。だけども、それらの議論はあまり深まることもなく、再建に踏み切られたように思えてならない。

津久井やまゆり園で感じた「静けさ」は実のところ、私には馴染み深いものでもある。私は中学2年生のときに、山形県のろう学校に転校した。家から電車と歩きで2時間はかかる距離なので、週末だけは地元に戻っていたけど平日は寄宿舎で過ごしていた。そのろう学校は山形市の中でも外れにあって、田んぼの中にドデンと大きな敷地がある。

その頃のろう学校はかっての賑わいがなくなって、寄宿舎にいる児童生徒も一時期に比べたら本当に僅かだった。その中で1日が静かに終わっていくことは、確かに安全で慌ただしさとは無縁なのだけども、なにかこう寂しさが募ったし、ともすれば「孤立感」が襲ってくる夜も多かった。

また、このろう学校は完全に「地域社会」とは結びついていなかったように思う。それを一番強く感じたのは、近くにある中学校にろう学校の中等部の生徒がいって「交流会」をしたときだった。この交流会はまったくのお仕着せのもので、特に情報保障があるわけでもなければ、なにか会話を促すわけでもない。ただ、「障害者と交流しました」という実績を作るだけ、という意図をありありと感じたし、そこに和気あいあいな雰囲気が生まれようもない

その後、東京の方のろう学校だったり、障害者専用の学校とかにも行ったけど、どこも似たりよったりだった。施設は立派で大きいのだけど、そこは「賑わい」がなく、どこかさみしげな静けさがあった。その中で私は10年間過ごした。懐かしいと思うし、いま身をおいている健常者が大半の都内の喧騒の中では辛いこともあるのだけど、孤立した静けさの中に戻りたいかというと、それは嫌だし、「無意識の差別」とは静けさにこそ生まれるものだと感じている。その同じ静けさを、津久井やまゆり園に感じてはならないのだ。

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「ともに生きる社会かながわ憲章」にはこのような一節がある。

「私たちは、誰もがその人らしく暮らすことのできる地域社会を実現します」

ここでいう「地域社会」とはなんだろうか。この場所の静けさの中で発生する「地域社会」とはなんであろうか。そういう問が、緑の谷間から響く気がした。

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