こんばんわ。くらげです。
NHKスペシャルは見ましたか
昨日の「NHKスペシャル発達障害」はご覧になりましたでしょうか。ボクは「ある・・・ある・・・」とお腹と頭を痛めながら見ておりました。
詳しい内容についてはご存じ友人の宇樹さんが書いているのでそちらを読んでいただくとして、ボク自身が気になったことを書きます。
「普通」が発達障害者を追い詰める
ボクが衝撃だったのはイギリスの調査で、推定の最大値として自閉症スペクトラム障害の70%がうつを発症しているという話でした。
普通の鬱の発症率が6〜10%と言われるところから考えると異常に高いわけです。それだけ精神的にキツい状態に追い込まれるのが「普通」なわけですよ。
この追い詰められる感じがどこから来るかというと「普通」でないと世間から排除される仕組みということでした。(日本に限らず世界的な意味での)社会は「多数派のふり」をしないと生きていけない、その「ふり」に疲れる、プレッシャーを感じる、生きていけない、ということですね。
で、多数派のルールは多数派が自然に形成するもので「普通は何か」に答えられる人はいない、という話も出ましたね。だから普通じゃない人は普通という物差しを一つ一つ手探りで右往左往して疲弊して精神的や体調的に病んでいくと。
人生劇場
こういう「普通を手探りする感覚」はボクも常に感じていて外に出ている間はどこか「演じている人格」な感じがいつもしています。まぁ、普通の人と言われている人たちも常にどこか社会性の演技をともなうのでそれ自体が特別とは言えません。
ただ、見せるべき自分が常に本来の自分に100メートルくらいのゲタを履かせなければいいけないのが負担なんですね。ヘボ役者に主演男優やらせたらたちまち映画が破綻するのと同じです。
その破綻をなんとか取り繕ったところで上映したところで観客から大ブーイングをくらって酷評されますわな。発達障害者の「演技」なんて大半はそんなもんです。たまに名優もいますけど、人間、演じられる幅は決まっています。その幅を大きく超えたことをするのは破綻の最短ルートです。
聞こえることがいいことなのか
なんでまぁ、普通にするという演技を辞めればいいかというとそうでも無い。ここで先日ツイートしてRTが2000を超えたボクのツイートを見てみましょう。
人工内耳の手術をして1年目で人の声が聞こえるようになって3年目で電話がある程度できるようになり5年目でセミの声を知り7年目で鈴虫の音が心地よく聞こえ10年目でバイオリンが素晴らしいと思えるようになった。今年は何が聞こえるようになるだろう。 #フォロワーが体験した事が無さそうな体験
— くらげ@ブログに引きこもり (@kurage313book) May 20, 2017
このツイートですが、一見、美談のようですしボク自身がこの成果に誇りを持っているように見えますよね。でも、事実はそこまで単純では無く、聞こえることに対して屈辱と罪悪感を覚えてもいるんです。
聴覚障害者が「普通」に聞こえるようになることがなぜ美談なのか。それは「普通に」聞こえることが「いいことだ」と自然に思っている人が多いからですよね。
でも、ボクにとっては確かに人工内耳でいろんな音が聞こえるようになったのはうれしいことですが、それを喜ぶこと自体が「ろう者」のままで入れなかった自分の弱さであり、普通になることを甘んじる屈辱感でもあります。また、聴覚障害者としてのアイデンティティを揺さぶるものでもある。
しかし、便利に使えているものを今更捨てる気にもならず、「聴覚障害者のままでいられなかったし健聴者にもなれない」という宙ぶらりんさで「演じるもの」すら定められないのです。
普通でないのを認めるは現実的な解ではない
「普通で無いことを認める」ということは必要な理念であっても「現実的な解」ではない。これは障害者をやってるからこそよくわかります。
障害者を長いことやってると自分が「普通」の基準にはいないことを理解しますが、それでも自分の中で少しずつ「普通」を学んでいきます。
先のボクの悩みも「聞こえないことが普通」という基準ができたらこそ、そこから逃れようとしている自分が苦しいのです。
また、障害者だからと他の障害者を馬鹿にしないわけじゃない。むしろ、知り合いの中で最もその手のデリカシーがないのは聴覚障害者の集団ですね。
ボクは聴覚障害と発達障害がありますが、発達障害者が聴覚障害者を、聴覚障害者が発達障害者を理解しない狭間をボクは体験しましたし、これからも体験し続けるでしょう。ここにすら分断があるのです。
マイノリティとは普通の人たちと「普通」を共有しない人たちでありますが、他のマイノリティ属性と共有しているかというと、「普通の人たち」以上にできていません。だから我々は少数派であり、弱いのです。「普通」ほど結束力が高い概念はそうそう無いからです。マイノリティとは分断されるからこそマイノリティなのです。
「普通で無いことを認める」は「発達障害者/健常者」の文脈だけでは語れません。要はすべての人の「価値観」を等しく認められるかどうかの問題なのです。ここまで踏まえた上で「普通で無いことを認める」とあなたはいえますか?
それでも「普通じゃない」を生きるために
されど。理想は高く掲げるから理想であり得る。
「普通でないこと」は難しく辛くもあるけども。肉体的にも精神的にも限界が出来ることだけども。孤独を抱えて死にたくなることでもあるけども。理解できない他人を責め合うことでもあるけども。
それでもボクたちは「普通でない」ことを高らかに掲げて生きていくしかない。普通になれないボクたちだから、せめて「普通でないこと」を理由に他の人を責めたくはない。そう願いたいのです。
普通とはなにか。それは多数派が作り上げるものか?そうではない。ボクたち一人ひとりの心が作り上げるものだ。だから、「普通」を求める世間と戦うとき、それは実は自分の心と戦っている。外ではなく、内なる差別と戦うことが最も大事なんです。
強くなりましょう。自分の中の「普通」を乗り越えましょう。そして、非常識の荒野を耕しましょう。その先にボクらが永住できる理想があることを願って。
では、今日はこれくらいで。皆さん、普通を乗り越えるために踏ん張りましょう。でわ。