こんばんわ。くらげです。
やっと金曜日ですね。今週も疲れ果てています。お疲れ様でした。
読みたい本がないのです
いい小説は精神的な疲労回復に役立つのですが、最近読む本がどうにも実用的なものばかりなので「本を楽しんでないなぁ」と。今のところ進んで読みたい小説がない。既に読み終わった本をペラペラめくっているのですがどうにも小説を楽しむためのリハビリの必要がありそう。小説書きたいという前に本を楽しみなさいよ、と言うお話でした。ちなみにこういう小説レビューとか書いてます。
障害児と親の断絶〜聴覚障害の場合〜
さて、昨日書いた記事が約600PVというこのサイトにしてはヒットを飛ばしました。
1日での伸びでははてなブックマークでバズったトランプ記事の次には盛り上がっております。読者の皆様、ほんとうにありがとうございます。
ツイッターでも若い発達障害当事者や親御さんなどから「考えさせられた」「断絶を超えねば」というコメントがありまして、記事を書いたほうも勉強になりましたね。特に「世の中を発達障害にとっても生きやすいものにしたいという想いで繋がれるはず」というツイートは今回の問題の突破口になりそうです。
親は障害者ではない
で、今回は発達障障害児の親と成人発達障害者の問題について、聴覚障害のほうからもちょっとだけ。ボクは聴覚障害の方が本職ですし。というか、発達障害発覚は28歳の頃なんでぜんぜんルーキー。障害者としてのキャリアは聴覚障害のほうがはるかに長いし、そもそもろう学校卒なんですよね。
で、聴覚障害者としての立場から「保護者と当事者の断絶」の問題を見直すとですね、「親は障害者じゃない」という当たり前の事実に突き当たるんです。聴覚障害はもう「聞こえる/聞こえない」というどうやっても乗り越えられない壁がどーんと立ちふさがっています。
特にろう学校に通うような子はほとんどが重度障害なので、親がろう者のデフファミリーとかじゃない限り、もう聴覚障害児とその親に間には障害という断絶はコミュニケーションのとれなさで現れるわけです。そのギャップを埋めようと「どうすれば聞こえるようになるのか」「喋られるようになるのか」という情報を求めて悩むわけです。
親というものに対する反感
で、成人聴覚障害者は、というと、そういう努力を冷ややかな目で見ている人が少なくない。子供の頃聞こえたり喋ったりすることに多大な期待をされた事に対するある種の「恨み」みたいなもんや、聞こえないことを素直に受け止めてもらえなかった、という否定された感じを抱えている人もいるからですね。やはり親は「普通になって欲しい」と思うもんですが、特にろう者になると「聞こえないままに生きる」ことを求めるもんです。
そういうギャップもあってか、成人聴覚障害者と親御さんの間でのコミュニケーションはそんなに盛んにあるわけではない。また、そういう場や機会もなかなかないんですね。(ろうあ連盟がいろいろやっているようですが)このへんの鮮烈さは発達障害の比じゃないです。
なので、聴覚障害について語るときも、健常者の親が子どもの教育について語るときと、成人障害者が自分の仕事を語るときではそれはもう別世界の感じありますよ。(手話という問題もあるのですが)
次回は希望を書いてみる
というわけで、これらを踏まえて、障害児の親と成人障害者がどうコミュニケーションを取れば良いのか、と言う考察を次回にやりたいと思います。ツイッターで議論するかも。
では、今日はこれくらいで。でわ。