こんばんは。くらげです。
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音声認識で滑舌の悪さを知る
音声入力に関する記事の違和感
ボクが音声入力に言及して数ヶ月経ちますが、その間に音声入力を活用している著名人が増えてきていますし、それに触発されて音声入力で記事を書くブロガーも増大してるようです。
音声入力のすごさが広まってきた!となる一方で、音声入力に言及している記事を見るとちょっと違和感がある。「音声入力でブログを書くのはとても楽」という趣旨の記事だと、音声入力でほとんど言い直しもしてないようでそれこそなめらかに入力できているようです。
あんた、滑舌悪いよ?
一方で、ボクはというと確かに手をあまり使わず記事を書けるんですが、つっかえたりどもったり全然に意図通りに認識されなくて何度も修正を重ねています。
だから、そこまでスムーズに書けるもんなのかねぇ、と不思議なのですが、妻のあおの「あんた、かなり滑舌悪いっていい加減自覚しなさいよ」と衝撃的な突っ込みを頂きました。
難聴者なまりがあります
ボクは人工内耳と補聴器をつけて「聞こえてはいる」のですが、昨日も書きましたら、聞こえるという程度が「ふわふわした塊を受け取ってそこから活字を探す」ようなものです。
ですから、細かいところが普通と同じ意味で「聞こえている」わけでもないですし、他人の声の違いもあまりわからないようです。
とりわけ、自分の声というのは難しく、自分ではのどの震えを感じますし、頭の中で既に文章が出来ているのでちゃんと声が出ているつもりなのですが、うまく発音出来ていないことが多いようです。まぁ、典型的な「難聴者特有のなまり」というのがあるんですね。
音声入力で発音がよくなる?
こういう難聴者なまりは音声入力ではかなり拾いにくいようで、正確に認識してくれません。特にボクの場合はカ行やサ行がかすれておいるので欠落してしまうようです。
しかし、これは考えようによっては発音を上達させるチャンスでもあります。
難聴者なまりは「自分の声を正確に聞き取れず正しい発音にフィードバックできない」ので発生するのですが、音声入力が正確に認識するように工夫して発音すれば人間相手にもわかりやすい発音になるのではないかと。
フィードバックがあるありがたさ
もちろん、こういうのは人を相手に「聞きにくい」「聞きやすい」というのを逐一指摘してもらうのがいいのでしょうけども、普通は難聴による滑舌の悪さは指摘しにくいでしょうし、こちらとしても恥ずかしい。
なので、スマホに話しかけて「自分がどれだけ正確に声が出ているか」を確認して発音の練習をしてみるってのはいいかもしれませんね。
まぁ、音声入力をマスターすべく、自分も発音練習を重ねたいと思います。なお、あおは「うるせぇ!黙れ!」とあおってきますけどね。
しゃべれるのが一番か?
発音がよいことが第一義ではない
ただまぁ、ここで勘違いして欲しくないのは「難聴者だから発音をよくする必要があるか?」っていうとボクはさほど無いと思います。
ボクは「音声入力を使いたい」という目的があって発音をよくしたい、というガジェットオタク的な目的が先にあるわけで、他の人が聞きやすくする、というのは二次的な理由です。
本来、聴覚障害は「聞く・伝える」に問題があるので、それは周囲もカバーするべき範疇ですし、聴覚障害者がひとりで責任を背負い込むモノでもありません。
ですから、聞こえやすい・聞こえにくいという問題は健常者の側にある壁で、我々聴覚障害者の責任ではない、と考えるのです。(原則論ですね)
コミュニケーションの本質を大事に
では、そうはいってもどうコミュニケーションを取ればいいか、という疑問を持つことがあるでしょう。 まぁ、わかりやすいのは手話ですね。ボクも手話で話せるのでろう者の友達などとはコミュニケーションに困ることは起きません。
とはいえ、手話を覚えるのは難しいし学ぶ機会もそうあるわけではない。(あおも手話は出来ません)
ならば、メールやLINEなどのネットを活用すればいいですし、紙とペンでもいいわけです。お互いに筆談すれば対等なんじゃないでしょうか?
もちろん、文字にするのは時間がかかるし手間もかかる。ならばUDトークなどを導入して音声認識でもよい。滑舌が悪い人に滑舌をよくするように言うよりはよほど楽です。
要は、「伝いたいことを的確に伝える」のがコミュニケーションの本質であり、それの手段はあくまでも「便利な基準」でしかないのでは、と思うのです
多様性とは本質を見極めること
最近は「多様性がきわめて大事」ということが喧伝されておりますが、多様性といってもなかなかに難しい概念です。
また、たとえば、光に対する過敏の問題で「暗い部屋がよい」と言う人と目の問題で「明るい部屋でないと文字が読めない」という人が同じ部屋にいなければならない場合、どちらを優先するか?という多様性のぶつかり合いがしょっちゅう発生しますよね。
では、こういう問題に対してどう向き合えばいいか、というと結局「何のためにその場に集うか」とかそういう「本質」を基にして考えなきゃいけないんだろうなー、とか。
まぁ、見た目より中身、っていうのは「本質」をつかんでこそなんだろうな、とか改めて思いましたね。全然掴めてませんけど。
踏ん張りましょう
では、今日はこれくらいで。皆様、自分の本質を見極めつつ踏ん張りましょう。では。