こんばんは。くらげです。
祖母の葬儀が終わりました
昨日、祖母の葬式がつつがなく執り行われました。初夏を思わせる青空のもと、しめやかにお見送りできたこと、大変良かったです。
葬儀の意味ってなんだろう
そんでまぁ、ADHDなものですから、ずっと座って読経を聞く、というのは人生の中でもかなり嫌なレベルに属する体験でございます。
個人的に宗教はあることもあって、故人の冥福を祈るのにお寺の坊さんが読経上げる必要あんのかねぇ、故人が聞こえるわけでもねぇし聞いてる方が意味を理解できるわけでもねぇし、というところ。(自分の属する団体の経典は現代詩集みたいなもんですから)
まぁ、葬儀自体は大変シンプルに執り行われたのでそれほど苦痛ではありませんでしたが、「葬式ってなんでこんなに形式的なんだろうなぁ」とずーっと考えていたんですね。
ADHD的には「故人の冥福なぞ好きなときに好き勝手に祈ればよかろう」と考えるのですが、まぁ、普通は「どうしたら冥福を祈ったことになるのか」という「お手本」のお手本のようなものが必要なんだなと。
宗教的な行事は明確なゴールのようなものがあるわけでもないし、これをしたら天国にいけます、みたいな話を実証しようもないので、まぁ、何をしたら充分か、なんてわからんわけですよね。
なので、伝統宗教の坊さん読んで葬式をしてて、というのが「ふんぎり」をつける一応の形であるんだろうなぁ、と今更ながら納得したり。
意味が無いことにも意味はある
そうなるとまぁ、葬式という一見「無意味」なものにも(霊的な意味を除いて)生きる人のための区切り・意味付けみたいななのがあるわけですね。
ただまぁ、宗教的なものは「本質」がなかなか設定できないわけなので納得はできるんですが、子供に持たせる雑巾は手縫いに限るとか、幼稚園の連絡帳は白紙のノートにペンで線を引いたものしか認めない、とかそういう謎の「本質ではなかろう」というところの苦役はよくわからないですね。
まぁ、そういうのは「道徳」だの「やる気」だの「精神論」だの、やはり目に見えずにふわふわしているものを中心においちゃうからなのかな、とか。どうも日本では道徳が宗教的なアレになりがちなのも納得できますね。
踏ん張りましょう
では、今回はこれくらいで。皆様、本質からはずれないようにしつつ踏ん張りましょう。では。